むりしない農家(仮)のブログ

無理をしないことに決めた農家(仮)のブログです。

諦めたらそこで対話終了ですよ

こんばんは!むりしない農家です。

 

経営者と呼ばれる人は、よく「上のやつら」「上層部」とか呼ばれたりしますよね。

あれって実は「上」の人たちが私は上ですよと自称するパターンは少なくて、ほとんどが「下」にあたる人たちが自分たちを下だとしているんじゃないかと思いました。

ある種の自虐です。私は中高生のいちばん卑屈だったころ、日課のように自虐をしていたのでわかるんですが、自虐って楽なんですよね。表面的には自分以外の誰かを傷つけずに済むのでトラブルが起こりにくいです。

 

でも楽ということは、何かをおろそかにしているということでもあります。

自虐の場合はコミュニケーションをおろそかにしている、あるいは100%諦めているんだと思います。自分のような下の人間には、上の人たちの考えていることはわからないから、と理解を諦めてコミュニケーションを放棄しているってことです。

 

なぜ諦めてしまったのか、原因はそれぞれ違うと思います。最初は対話を試みたのに経営者が聞く耳を持たなかったとか、本当に物理的に距離があって話せないとか。

だけどどちらかが諦めた時点で、コミュニケーションが成立しなくなることは間違いないんですよね。安西先生も言ってました。

 

もったいないよなあと思います。

現場で手を動かす人がいて初めて、経営陣は仕事ができる。経営陣が全体を見ているから現場は現場に集中できる。そこには単純な適材適所があるだけで、どちらが欠けても組織は成り立たないんだから完全に対等なはずだろと思うんです。

そこを勝手に自分を下げて、協力すべき味方を戦う相手みたいにとらえてるのってすごくエネルギーがもったいないです。あとシンプルに頑張ってる自分に対しても失礼だと思います。

 

ちょっと愚痴感が漂っていますが、どちらかというと「現場すごいやん!もっと自分を褒めてよ!」ということが言いたかったです。数年後に自分が人を雇う経営者になるのかまだわかりませんが、もしそうなったときには「上の人」って絶対呼ばれたくないなと思いました。どうしたらいいんだろう。

でもこんなことも、組織にいなきゃ考えないのでやっぱりいい環境にいさせてもらってるんですよね。ありがたいです。明日もちゃんと働きます。それではおやすみなさい!

生かされてるなあ

こんばんは!むりしない農家(仮)です。

 

札幌に弾丸で遊びに行ってきました。推しのライブがあるというので、6時間かけて青森から札幌ドームまでいそいそと出かけました。

ステージ上に立つ推しを見上げるたびに、「生かされてるなあ」と感じます。直接食べ物やお金を与えてくれるわけではないですが、確実に生きる糧を与えてもらっている感覚があります。

 

現在の私の人生における優先順位で、同率首位くらいに仕事と推しが鎮座しています。

この優先順位が何によって決まっているか考えると、やっぱり「生かされてる度」が最も寄与していると思うんです。

仕事は、言うまでもなく自分を生かしてくれるものです。

単純に仕事をすれば生きるのに必要なお金が手に入りますし、起きてる間の大部分の時間に存在する意味をくれるものだと思っています。やりがいとか生きがいとか呼ばれるものです。

仕事が生きるための土台であるなら、推しは土台に立つ姿勢を決めてくれる、脊髄みたいなポジションかもしれません。

生きることの下支えをするのが仕事、上物をピシッとさせてくれるのが推し、みたいな感じです。

 

ただ、ここで1つ問題があります。

生きるために必要なこととして重要なことを忘れています。私が特に忘れがちなもの、それが生活です。

毎日風呂に入ったり洗い物や洗濯をしたり、ゴミを出したり、とりあえず三度三度のご飯を作って食べたり。そういう「生活」が、苦手です。

先ほどの生かされてる度の観点から考えれば、風呂や洗濯をすっぽかせば社会的に死ぬので生活もかなり優先順位は高くなるはずです。

わかっちゃいるけど苦手。できればやりたくない。

でもやらなきゃいけないんですよね。どうにか生活の億劫さを解決できるだけのお金を稼ぐか、生活の苦手な部分を洗い出して解消するかしていきたいです。

 

それまでは、推しのくれた糧で誤魔化し誤魔化し生活を続けていきます。生活を続けたら推しにも会えるし仕事も健康にこなせるはずなので。生活できているだけで全肯定されたい人生でした。

それではおやすみなさい!

会社すごい

こんばんは!むりしない農家です。

 

会社員ができなくて農家になろうと思い、農家になるためにまた会社員になりました。

今回は、会社ってすごいなあと思った話です。

 

先週末、社長と社員の方に実家の畑の剪定をしてもらいました。青森でも請け負いで剪定をしているようなプロたちが、わざわざ宮城まで遠征してきてくれたということです。簡単に言うと、めっっっちゃ有難い身に余る幸運って感じです。

RED APPLEに入らなかったらこんなこと起こらなかっただろうなと思います。

これだけ剪定の技術と剪定を教えてきた経験がある人たちと知り合うことが、まず個人で新規就農した場合、けっこう難しいです。

 

そして社長や経営陣と会うことももちろん重要ですが、同じチームで一緒に働く「同僚」という存在も会社に属することでしか得られないんじゃないかと思います。

自分が経営者になってからでは、どれだけ同じ作業をして同じ気持ちになった気分でいても、根本で「雇用者と被雇用者」という立場の差はどうしても生まれます。

社員として雇われて働くってどういうことなのか、それを複数の会社で経験できているのは幸運なことだと思っています。

 

また、経験を積む回転数を上げられるというのも組織の強みです。

りんご農家として食べていける下限の面積が1haくらいと言われています。対して、今の会社ではその10倍以上の面積を農園部10人くらいで管理しています。(私の実家は0.3haくらいなのでマジで次元が違います)

単純な計算上なら、個人の農家10人に同じ面積を割り振っても同じことになると考えられるかもしれません。

 

でも組織で行えば、分業ができます。

剪定チームはひたすら剪定だけを、周りの倍のスピードで倍の面積進めることだって不可能じゃなくなります。付帯作業に割いていた時間と労働力をすべて剪定につぎ込めるからです。

これができれば、同じ時間働いても倍の経験値が貯まることになります。

一番やるべき仕事に集中して試行回数が増え、その仕事に必要な経験が早く積めて、さらに仕事がしやすくなる。すごい循環ですよね。うまくいけば。

 

ただこういうことに気づいたのは、やっぱり自分で経営をすると決めて動き始めてからです。

実際1人でこの仕事しようと思ったらどうすればいいんだろう、と実感のこもった想像がようやく最近できるようになってきました。お金も時間も体力も、自分は何も持ってないので笑うしかないときもしばしばあります。

でも前職で、会社しんどい組織にいられない、と悶々としていたときに比べたらよっぽど組織というものを尊敬できている気がします。

 

中にいるだけでは好きになれなくても、外から見てみたらすごいなと思えるようになる。そんな経験をさせてくれた前の会社と今の会社は、やっぱりすごいんですね。

私もそういう組織をつくれるだろうか。「つくれるかな」と考えるってことは、作りたいと思っているということなので、前向きに精進しようと思います。

 

更新が少ない分、書くときは長くなってしまう傾向が最近あるみたいです。これはこれで性に合ってる気もするので、私と合う人は懲りずに読みに来てください。それではおやすみなさい!

誠実さとは

こんばんは!むりしない農家です。

 

自分に誠実であることとわがままであることは何が違うのか、というのを考えています。

前の会社を辞めてから1年と少し、ずっと自分の楽しいことややりたいことは何かを探してきました。人生で一番長く付き合うであろう自分をまずは大切にしなくてはいかないと思っていたからです。

ただ、これはいわば風邪のときにずっと布団をかぶって寝ていなくてはいけない、みたいなものかもしれないと思い始めました。風邪が治ったならいつまでも寝ているべきではないですよね。

 

あまりに自分をないがしろにしている期間があったので、ほったらかしていた自分に目を向ける期間は必要でした。今までやっていたことは間違いではなかったと感じています。

でもこれをいつまでも続けるべきなのかなあ、続けて大丈夫なのか?という段階に来ています。つまりはかなり元気になったということです。

やりたいことだけをやるためには、①やりたくないことはやらなくて済むようにする②やりたくないことをやりたいことに変換する の2パターンしかありません。この訓練をひたすらやっていたのがここ1年間でした。自分の欲望に誠実であろう、というスローガンでやってきました。

 

誠実と言うと聞こえはいいかもしれませんが、ふと考えたらそれって単なるわがままな人が爆誕しただけじゃなかろうか、と思います。

気になったので検索したところ、「わがまま:相手・まわりの意に反して、無理なことでも自分がしたいままにすること。したいほうだい。」という定義が出てきました。したいほうだい。

まさか自分の無理をなくすためにもがいた結果、他人に無理を強いる側に回っていたとは。いやまだ明らかな実害が出ているわけではないですが、このまま自分の無理のことだけを考えていたらそちら側に転落するのは時間の問題です。

 

だから気をつけなきゃいけないのは、私が無理したくないのと同じように、相手も無理をしたくないと思っているんだということですね。双方の無理をなくすのが一番いいです。

楽かどうかでいうと、たぶんどちらかが我慢して無理する方が簡単に事は終わります。でもそれをしたくないから私はむりしない農家を名乗っています。そこのところを忘れないようにしたいです。それではおやすみなさい!

農家はアイデンティティだった

こんばんは!むりしない農家です。

 

今日は雨だったので畑の作業が少し早く終わりました。

終わった後に、事務所で昔のテレビ番組の映像を見ました。りんごの神様とも呼ばれるレジェンドが、どうやって「ふじ」という品種を世に送り出したかの特集です。私が生まれる前に放送されたものです。

 

その時代の農家というのは、働き方や職業のひとつではなく、「農家である」というアイデンティティの根幹だったんだよなと強く感じました。

今の青森がこれだけ強いりんご産地なのは、これまでりんごに人生を賭してきた多くの諸先輩方がいたからです。りんごに人生を賭したのは、りんごを作るしか生きる道がなかったからです。生きる道というのも比喩ではなく、本当に一家が命を繋ぐための手段がりんごを作って売ることしかなかったという文字通りの意味です。

選びたいとか選びたくないとかの発想がまず存在しなくて、自分が人間であることと同じかもしかするとそれ以上に、自分が農家という生き物であることが当然の事実だった。

りんごがダメなら別の作物にシフトしようとか、別の職業に転職すればいいとかそういう時代には「ふじ」という品種はどうやったって世に出ることはなかったんだなと思いました。

 

私は基本的に、この「農家は農業に人生をささげる」という神話はもう滅びてほしいと願っている派です。でもそんな小賢しいことを言ってのほほんと農家になろうとしていられるのは、何百人という先人たちが人生をささげて作ってきた道があるからです。

そういう姿に憧れる気持ちが、理屈ではなく農業を好きだと思う理由のもとになっているのかもしれません。何もかもを一つのことに賭ける姿はやっぱりどうしてもかっこいいんです。

ただ、そんなかっこいい農家という生き物は絶滅危惧種です。環境の方が変わってしまったからだと思います。嫌な言い方をすれば、淘汰されていくのは仕方のないことなのかもしれません。

 

でも「農家ってかっこいいんだ」と思った気持ちまでなくしたくはないから、今の環境で生き延びられる働き方に変えてまでも、「農家」を残したいと願うんだと思います。

今の時代に合わせないと、とかよく言ってしまいますが、なぜ時代に合わせて変化させても残したいのかという部分をおざなりにしちゃいけないなと思いました。こんなかっこいい生き方をしてた人がいるんだと後世に知らせるために、私は農家になりたいと思ったんだなあ。

自分をかっこいいと思ってもらえるかはまだまだわかりません。でも少なくとも、かっこいい農家がいたことを知って覚えておくこと、その気持ちを忘れないことは今の私にもできるので、絶対忘れないようにします。

 

久しぶりにカッとなって殴り書きしたので、あとから恥ずかしくなって下げるかもしれません。思ってることは本当なんですけど言い方がたぶん恥ずかしい!それではおやすみなさい!

SNS弱者だけどちょっと慣れてきた

こんにちは!むりしない農家(仮)です。

 

Twitterのフォロワーさんが1000人を超えました!ありがとうございます!!!

こんな元ニートをなぜにフォローしてくれるのだ…?という疑問は常にありますが、見ていただいたからには楽しんでほしいよなあとも思っています。

 

SNSというものに、あまり積極的に関わらないまま大人になりました。学生時代から持っているアカウントは、趣味の人と少しの友達と近況報告をし合うような鍵垢一つだけです。ここ数年新しく誰かをフォローした覚えもありません。

そんな圧倒的SNS弱者が、オープン垢で顔も実名も晒して何考えてるんだというのを今日は少し書いていきます。

 

なんでSNS始めた?

まずなんで陰キャSNSなんか始めたんだよという経緯をご説明します。端的に言うと、「やれって言われたから」です。すごい受動的。

 

農家になりたいと思ってなんとなく研修先を探していた頃、たまたまRED APPLEの吉川さん(現上司)と何度か話をしました。

そこで、何もないところから農家になるなら、まず応援してくれる人は1人でも多い方がいいよねとなりました。

じゃあお金もかからないし、当時はニートなので時間もあるしとりあえずやってみようと軽いノリでアカウントを作成しました。失うものとかはないので、どうせなら顔も出しとくか減るもんじゃないし、みたいな感覚でした。

 

何考えながらやってる?

むりしない農家として持っているアカウントはTwitterInstagramの2つです。

最初は何もわからなかったのでどちらにも畑で撮った写真をなんとなく上げていました。Instagramに関してはまずROM専すらしたことがなかったので、使い方を覚えるために投稿している期間もありました。

 

どうにか使い方がわかってきて、本腰を入れ始めたのがだいたい半年前です。その頃からTwitterInstagramの使い分けも少しずつ意識するようになりました。

自分ルールとして「Twitterは笑われるように、Instagramは羨ましがられるように」というのは考えています。単純に自分がいちユーザーになっていいねを押すのはどんなときだろうと考えたら、そこに行き着きました。

Twitterで綺麗な景色やキラキラした出来事を見たいかと言われれば微妙だし、逆にInstagramで愚痴とか失敗談を目にしてもテンションは上がりません。

だから今は、綺麗に撮れた畑の写真はインスタに、ありえないミスをした話はTwitterにあげる、みたいな行動指針でやっています。完全なる素人考えなのでなんの根拠もありませんが。

 

半年前と何か変わった?

慣れてきたなという感覚は確実にあります。さきほどの行動指針のようなものが決まってきたこともあり、投稿が億劫に感じることはほとんどなくなりました。

今日はこれを撮ってこの話をしよう、というのを半分無意識に考えられるようになりました。SNSの基礎体力みたいなものがついてきたんだと思います。

 

あとは単純に、始めたての頃には想像もつかなかったほどの人に見てもらっているということです。

そのために始めたので当たり前と言えばそれまでなのかもしれませんが、こんななんでもない1人の元ニートを見守ってくれる人が本当にいたんだ…と驚きました。今も驚いている最中です。

見ていてくれる人がいると実感することで、友達が増えたような気持ちにもなっています。

これは友達多いんだぜいいだろ〜ということではなく、「これ見せたいな」「聞いてほしいな」と思う相手が増えたという感覚が近い気がします。

 

自分は元々、対面でそこまで自分の話をたくさんできるタイプではないです。でも今後農家になるために協力者を増やしたいなら、ある程度自分が何を考えているか相手に伝える能力は必要です。

そう考えると、半年で芽生えてきた「聞いて聞いてムーブ」はあながち悪いものじゃないのかなと思っています。やりすぎたら嫌われますけどね。

 

これから何したい?

SNSをやる目的や意識を変えていくつもりは今のところありません。ニートから農家になっていく過程を眺めて面白がってもらおう、という路線で今後もやっていきます。

 

ただ、フォロワーさんって何なんだっけというところは意識を変えようかなと思ってます。

今まではフォロワーさんに対して「ファンになってもらおう」と考えながらやりとりをしていました。別に私がアイドルになりたいというわけではなく、知らない人の投稿より推してる人の投稿の方が見ていて楽しいだろうと思ったからです。

こいつのファンになったら楽しいだろうなとどうやったら思ってもらえるか、というのは考えていました。

 

でも最近は、ファンですらちょっと遠くない?と感じるようになってきています。ファンよりも、同じ経験を共有した仲間とか、昔から年賀状を送りあってる親戚くらいのポジションに行けたら強いよなあと思うことが増えました。

「あいつは私が推したから大きくなったんだよ」と思ってもらえるのが理想なのかもなと思います。

とはいえこれはあくまで自分の意識の違いなので、やること自体は変わりません。毎日ポチポチ投稿していくだけです。

 

思ったより長くなってしまった。ここまで読んでくれた方は間違いなくファンの方ですね。いつもありがとうございます。今後とも何卒よろしくお願いいたします。

今日はなぜか休みなので秋田に遊びに行きます!それでは!

失敗してもいいって言うけどさ

こんばんは!むりしない農家(仮)です。

 

ひょんなことから、26歳になる年ですがまた社会人一年生みたいなことをやっています。

覚えていない、わからないのがデフォルトという状態は不安でもありますが、失敗してもたいてい大丈夫なのでむしろ安心かもしれないと思うこともあります。

幸い、今の職場は懐が広すぎるくらい広いので、入社2ヶ月目にしてだいぶのびのびとさせてもらってます。剪定歴1年未満なのに「自分で考えて1本切ってみな〜」と預けられることもあります。厳格な果樹農家の方からしたら卒倒するレベルかもしれません。

 

フリーで考えていい枝をもらうとき、「失敗してもいい」とよく言われます。

ただここで気をつけなきゃいけないのが、失敗してもいいというのはあくまでも他人から「失敗したな」って思われるような結果になってもいいってことです。自分で「失敗してもいいんだ〜」って思いながらやったら意味がなくなるんですよね。

ある種これは受験期の問題演習みたいなもので、本気でやった自分の判断がどう間違ったか検証するための作業なんだと思います。よく考えずに行ったぬるい判断を検証しても、結局なにが間違いだったのかわからないと思うんです。

 

自分ではこれがこうなって絶対成功するだろうってガチガチに仮説立てて検証しにいかないと検証の意味がない。でも自分が本気で立てた仮説が間違ってたって認めるのはけっこうメンタルにくるものがあります。

メンタルがべこべこになると次回またやろうと思えなくなって、試行回数が減ります。試行が減ったら当然精度は落ちます。精度の落ちた検証から行動を見直そうとしても、正しい軌道修正はできなくなるから迷走しちゃう、という悲しいサイクルをたどるんだと思います。

そこの起点にあるメンタルを救ってくれるために「失敗してもいい」という言葉はあるんじゃないかと思いました。

 

成功するつもりでやった失敗と、失敗するつもりでやった失敗では得られるものが全然違うんだよなあと思った話でした。

でもやっぱりいけると思っていけなかったダメージはでかいので、それに耐えられるつよいメンタルがほしい。あと根拠のない自信も。

ちょっと早いですがこれからおいしいご飯を食べてきて寝ます!おやすみなさい!