気づいたら7月になってたよね
こんばんは!むりしない農家(仮)です。
お久しぶりです。お久しぶりすぎたかもしれません。
端的に言うと、完全に更新を諦めていました。思えば前回は「気づいたら5月になってたどうしよう」とか言っていましたね。それがどうでしょう。7月です。
諦めつつも、頭の片隅にはなんとなく「ブログどうしよう」がずっといました。ブログだけでなく、SNS全般もそうです。何なら私生活全体に関して、おざなりになっていた2ヶ月と言っても過言ではありません。
どうしてかなあ、と理由を考えて出てきた可能性は2パターンです。
①わざわざ発信するほどのことをしていない
②自問するだけの問題意識がわかない環境になった
まず①を検証してみるために、過去の記事を読み返してみました。1年前くらいの、本格派ニート時代ですね。
発信するほどのことはしていませんでした、当時から。そりゃそうだ。発信力に自信があったら今頃インフルエンサーなりブロガーなりになってるんですよ。
だから、大したこと言えないから書けない、というのは単なる言い訳でした。
ただ、過去記事を読んで発見したこともあります。
だいたい昔から「自分何もできてない」「できるようになりたいなあ」しか言ってないなってことです。
ニート時代の私は、これを対面で誰かにぶちまけることができず、飲みに行ったり脳死労働をしたりして忘れることもできないためにブログで壁打ちしていたんだろうと思います。
つまりは②が本当のブログから遠ざかっていた理由です。
幸か不幸か、会社員になった私は自分で考えたり仕事を作ったりしなくても、毎日わかりやすい仕事が用意されています。考えなくても死にません。いやニートもそうだろと言われそうですが、微妙に違います。
社会に属している感覚って、やはり中毒性があります。会社ってすごく容易に「君がいて助かったよ」という強力なドラッグを手に入れられる場だと私は思っています。
単純化しすぎていますが、時給や月給をいただけるというのは、一定の条件を満たしてそこに存在するだけで己の存在価値が保証されることじゃないでしょうか。
存在価値を認められるのって抗えない快感だし、それが確実に得られる場があるとしたら離れられなくなる可能性は大いにあると思います。
働いてる間はいいんですそれで。必要とされるところで働いて自分もハッピー。最高。
ただ私はどうしてもエネルギーの配分が下手くそすぎるので、働く快感のために生活のエネルギーまでつぎ込んでしまうんですね。
そうだそうだ、私はこういう奴だったんだ。だから会社員を辞めたんだった、と懐かしく思い出しました。
すごく脱線しているように見えますが、要するに会社から必要とされてる感を得られてちょっと満足しかけているのでブログで悶々と自問したいと思わなくなっていたということです。
でもお気づきでしょうか。書き始めると止まらなくなるんですよね。しかも久しぶりなので早口オタク感を抑える理性がありません。
何にせよブログはやめないようにしたいなと思いました。少なくとも今は、どんなに不定期更新になっても言いたいことができたらふらっと現れる場所にしておきたいです。
むりしないというコンセプトに盛大にあぐらをかいて、更新頻度も形式もめちゃくちゃでやっていく所存です。
それでも面白がって読んでいただけたら嬉しいです。1回読んで覚えていて、あいつ生きてるかな〜とたまに思い出してまた来ていただけたらさらにもっと嬉しいです。
それではおやすみなさい!
ぬるっとピリッと
こんばんは!むりしない農家(仮)です。
今の畑仕事は、摘花から摘果へぬるっと移行しつつある状態です。
りんごはとにかくたくさん花が咲くので、とにかくたくさん花や実を落として適正な量まで減らさなきゃいけないんですね。
どのくらい減らすかというと、まずひとつの花芽に5-6個花がつきますが、これを1個だけにします。ここで5分の1くらいです。さらに腋芽というおいしくないりんごができるゾーンは全て花を取ります。そのうえで、さらに残った花もしくは実を3分の1くらいまで選別して落とします。
要約すると、とにかくたくさんです。これから夏までずっとこの作業が続くらしいです。
どうやらこれが性分に合っているようで、今のところ時間を忘れるくらい楽しく摘果しています。草取りしているときの感覚に近いかもしれないです。
基本は単調な作業だけど、だからこそ研ぎ澄まされていく感じがします。これはこれで適度に頭も使うし。
畑仕事に向いてる性分で良かったなあとつくづく思います。
楽しく仕事ができてるのはいいことなんですが、何となく落ち着きすぎてるなとも思っています。引っ越してきてそろそろ半年。りんご栽培を学ぶことやRED APPLEにいることにかなり適応してきています。安心感しかないです。
あえて悪い言い方をするなら、「漫然と弘前の暮らしを楽しんでいる」みたいな感じになってきてる、という懸念がちょっとあります。
こうなることは予想できてたから2年という期限を設けたんですけどね。それでも目の前の作業や生活がやっぱり大きくて、本来やりたかったことが放ったらかしになっていると感じることがあります。
ちょっとこのあたりでピリッとしなきゃな〜したいな〜と思っている話でした。
とはいえ「むりしない」という根幹を変えるつもりはないので、無理して自分のハングリー精神を焚きつけるみたいなことはしません。むりせずにピリッとする方法を考えます。それではおやすみなさい!
乗り物GOGOパラダイス
こんばんは!むりしない農家(仮)です。
5月になりましたね。あっという間に。
青森に来て4ヶ月半が過ぎたことになります。2年間の予定なので、もう6分の1です。
さすがに日常的な業務には慣れてきて、仕事は楽しいしお酒はおいしいし、ほとんどストレスフリーな生活を送ることができています。
ただなんとなく、慣れてきたことで安定してしまった感もあります。知らない雪道をド緊張しながら走っていたのが、多少道を覚えて乾燥路面になったからあまり考えなくても走れるみたいな感じです。
もっと言えば、「レールに乗った」という感覚が近いかもしれません。
他人に敷かれたレールの上を走りたくないという使い古された表現があります。でも最近、敷かれたレールありがたいじゃん最高じゃんとも思います。
すでにレールがあるということは、おそらく誰かがそこを通ってどこかに着いた実績があるってことです。つまり、その通り道に自分の目的地があるなら、レールを活用した方がたどり着く確率が上がるんですよね。
誰も通ったことのない道は、非効率だとか危険だとかの理由で避けられているだけかもしれません。
「誰かがすでに通った」「誰も通ったことがない」というのは、単に目的地へ行く手段として道を選ぶときには必要のない要素です。着けばいいんだから。
今の私は会社員というレールを一時的に選んでいるわけですが、自分の目的地に着いたら一旦降りることにしています。仕事を辞めてすぐ新規就農という限りなく徒歩に近い手段より、確実にこっちの方が速いと思ったからです。
大事なのはレールに乗るか乗らないかではなく、どのレールを選ぶかというところを自分で握っていられるかなのかなと思います。
合わないかなあと思ってた電車の乗り心地が存外と良いので、乗り過ごしてしまわないように気をつけます。それではおやすみなさい!
歯車上等の精神
こんばんは!むりしない農家です。
春眠暁を覚えずという言葉を体で感じている今日この頃です。毎日睡魔との戦いに勝てずブログを書くところまでたどり着けませんでした。
剪定の片づけにもめどが立ち、久々に予定が詰まっていない土日だったので好きなだけ寝ました。最高の贅沢です。生来のニート力をいかんなく発揮し、今日は一歩も外に出ていません。
りんご栽培に限らず、農作業、というか仕事全般には、「誰にでもできる仕事」と「この人にしかできない仕事」が存在すると思います。
最近の私が主にやっている仕事は前者の割合が圧倒的に多いです。そもそも私しか持っていないスキルがほとんどないので、そりゃそうですよね。
一見すると、「この人にしかできない仕事」はすごくかっこよく見えます。憧れます。職人気質の強い環境ではなおのことそれがもてはやされているイメージがあります。
ただ、こと組織で仕事をするとなったときに、その属人的な仕事が多くを占めていた場合、組織の意味がなくなってしまうんじゃないかと考えています。
個人で仕事をしていたら、その人一人が倒れればもちろん仕事はすべて止まります。
組織で仕事をする利点のひとつは、一人が倒れても他の誰かがフォローすれば仕事を止めずにすむところにあると思います。バックアップが数か所にとられているみたいな感じです。
属人性の高い仕事が増えてくると、このフォローがどんどん難しくなります。そうなると組織としてはもろくなってしまうんじゃないでしょうか。
だから誰にでもできる属人性の低い仕事が多いということは、実はすごいことなんじゃないかと思うこともあります。それだけ作業の全容がわかりやすく、無駄の少ないマニュアルができているということですよね。
そのマニュアルを作るのがまた誰にでもできることじゃない、という入れ子構造みたいになってるんですけど。
「組織の歯車」という使い古された表現がありますが、私はけっこう歯車でいるのも嫌いではないです。どういうふうにかみ合って、最終どういう仕事をする機関なのかわかっていれば、わりと歯車まわすのたのし~(脳死)ってなれます。
それと、誰にでもできる仕事だって、「誰か」として自分が必要とされるなら、十分社会のどこかに属したい欲求は満たされるような気がしています。誰でもいいけど私に声をかけてくれたなら、私としては頑張りますよという気持ちです。
裏を返せば、誰にでもできる仕事を作って、それを誰でもないあなたにしてほしいんだよと伝えることが大事な局面は出てくるのかなと思います。もし人に仕事をお願いできる立場になったら、そこは忘れずにいたいです。いつになるかわからないですけど。
最高の休日でやることもやったので、あとはお酒を飲んで漫画を読もうと思います。それではおやすみなさい!
諦めたらそこで対話終了ですよ
こんばんは!むりしない農家です。
経営者と呼ばれる人は、よく「上のやつら」「上層部」とか呼ばれたりしますよね。
あれって実は「上」の人たちが私は上ですよと自称するパターンは少なくて、ほとんどが「下」にあたる人たちが自分たちを下だとしているんじゃないかと思いました。
ある種の自虐です。私は中高生のいちばん卑屈だったころ、日課のように自虐をしていたのでわかるんですが、自虐って楽なんですよね。表面的には自分以外の誰かを傷つけずに済むのでトラブルが起こりにくいです。
でも楽ということは、何かをおろそかにしているということでもあります。
自虐の場合はコミュニケーションをおろそかにしている、あるいは100%諦めているんだと思います。自分のような下の人間には、上の人たちの考えていることはわからないから、と理解を諦めてコミュニケーションを放棄しているってことです。
なぜ諦めてしまったのか、原因はそれぞれ違うと思います。最初は対話を試みたのに経営者が聞く耳を持たなかったとか、本当に物理的に距離があって話せないとか。
だけどどちらかが諦めた時点で、コミュニケーションが成立しなくなることは間違いないんですよね。安西先生も言ってました。
もったいないよなあと思います。
現場で手を動かす人がいて初めて、経営陣は仕事ができる。経営陣が全体を見ているから現場は現場に集中できる。そこには単純な適材適所があるだけで、どちらが欠けても組織は成り立たないんだから完全に対等なはずだろと思うんです。
そこを勝手に自分を下げて、協力すべき味方を戦う相手みたいにとらえてるのってすごくエネルギーがもったいないです。あとシンプルに頑張ってる自分に対しても失礼だと思います。
ちょっと愚痴感が漂っていますが、どちらかというと「現場すごいやん!もっと自分を褒めてよ!」ということが言いたかったです。数年後に自分が人を雇う経営者になるのかまだわかりませんが、もしそうなったときには「上の人」って絶対呼ばれたくないなと思いました。どうしたらいいんだろう。
でもこんなことも、組織にいなきゃ考えないのでやっぱりいい環境にいさせてもらってるんですよね。ありがたいです。明日もちゃんと働きます。それではおやすみなさい!
生かされてるなあ
こんばんは!むりしない農家(仮)です。
札幌に弾丸で遊びに行ってきました。推しのライブがあるというので、6時間かけて青森から札幌ドームまでいそいそと出かけました。
ステージ上に立つ推しを見上げるたびに、「生かされてるなあ」と感じます。直接食べ物やお金を与えてくれるわけではないですが、確実に生きる糧を与えてもらっている感覚があります。
現在の私の人生における優先順位で、同率首位くらいに仕事と推しが鎮座しています。
この優先順位が何によって決まっているか考えると、やっぱり「生かされてる度」が最も寄与していると思うんです。
仕事は、言うまでもなく自分を生かしてくれるものです。
単純に仕事をすれば生きるのに必要なお金が手に入りますし、起きてる間の大部分の時間に存在する意味をくれるものだと思っています。やりがいとか生きがいとか呼ばれるものです。
仕事が生きるための土台であるなら、推しは土台に立つ姿勢を決めてくれる、脊髄みたいなポジションかもしれません。
生きることの下支えをするのが仕事、上物をピシッとさせてくれるのが推し、みたいな感じです。
ただ、ここで1つ問題があります。
生きるために必要なこととして重要なことを忘れています。私が特に忘れがちなもの、それが生活です。
毎日風呂に入ったり洗い物や洗濯をしたり、ゴミを出したり、とりあえず三度三度のご飯を作って食べたり。そういう「生活」が、苦手です。
先ほどの生かされてる度の観点から考えれば、風呂や洗濯をすっぽかせば社会的に死ぬので生活もかなり優先順位は高くなるはずです。
わかっちゃいるけど苦手。できればやりたくない。
でもやらなきゃいけないんですよね。どうにか生活の億劫さを解決できるだけのお金を稼ぐか、生活の苦手な部分を洗い出して解消するかしていきたいです。
それまでは、推しのくれた糧で誤魔化し誤魔化し生活を続けていきます。生活を続けたら推しにも会えるし仕事も健康にこなせるはずなので。生活できているだけで全肯定されたい人生でした。
それではおやすみなさい!
会社すごい
こんばんは!むりしない農家です。
会社員ができなくて農家になろうと思い、農家になるためにまた会社員になりました。
今回は、会社ってすごいなあと思った話です。
先週末、社長と社員の方に実家の畑の剪定をしてもらいました。青森でも請け負いで剪定をしているようなプロたちが、わざわざ宮城まで遠征してきてくれたということです。簡単に言うと、めっっっちゃ有難い身に余る幸運って感じです。
RED APPLEに入らなかったらこんなこと起こらなかっただろうなと思います。
これだけ剪定の技術と剪定を教えてきた経験がある人たちと知り合うことが、まず個人で新規就農した場合、けっこう難しいです。
そして社長や経営陣と会うことももちろん重要ですが、同じチームで一緒に働く「同僚」という存在も会社に属することでしか得られないんじゃないかと思います。
自分が経営者になってからでは、どれだけ同じ作業をして同じ気持ちになった気分でいても、根本で「雇用者と被雇用者」という立場の差はどうしても生まれます。
社員として雇われて働くってどういうことなのか、それを複数の会社で経験できているのは幸運なことだと思っています。
また、経験を積む回転数を上げられるというのも組織の強みです。
りんご農家として食べていける下限の面積が1haくらいと言われています。対して、今の会社ではその10倍以上の面積を農園部10人くらいで管理しています。(私の実家は0.3haくらいなのでマジで次元が違います)
単純な計算上なら、個人の農家10人に同じ面積を割り振っても同じことになると考えられるかもしれません。
でも組織で行えば、分業ができます。
剪定チームはひたすら剪定だけを、周りの倍のスピードで倍の面積進めることだって不可能じゃなくなります。付帯作業に割いていた時間と労働力をすべて剪定につぎ込めるからです。
これができれば、同じ時間働いても倍の経験値が貯まることになります。
一番やるべき仕事に集中して試行回数が増え、その仕事に必要な経験が早く積めて、さらに仕事がしやすくなる。すごい循環ですよね。うまくいけば。
ただこういうことに気づいたのは、やっぱり自分で経営をすると決めて動き始めてからです。
実際1人でこの仕事しようと思ったらどうすればいいんだろう、と実感のこもった想像がようやく最近できるようになってきました。お金も時間も体力も、自分は何も持ってないので笑うしかないときもしばしばあります。
でも前職で、会社しんどい組織にいられない、と悶々としていたときに比べたらよっぽど組織というものを尊敬できている気がします。
中にいるだけでは好きになれなくても、外から見てみたらすごいなと思えるようになる。そんな経験をさせてくれた前の会社と今の会社は、やっぱりすごいんですね。
私もそういう組織をつくれるだろうか。「つくれるかな」と考えるってことは、作りたいと思っているということなので、前向きに精進しようと思います。
更新が少ない分、書くときは長くなってしまう傾向が最近あるみたいです。これはこれで性に合ってる気もするので、私と合う人は懲りずに読みに来てください。それではおやすみなさい!