むりしない農家(仮)のブログ

無理をしないことに決めた農家(仮)のブログです。

翻訳コンニャク

こんばんは!むりしない農家(仮)です。

 

剪定と出荷を週の半々くらいずつやるという生活も板についてきました。

ほぼ毎日剪定のことを考えてるのでずっとブログも剪定の話になっています。ご了承ください。

 

「植物をよく見ろ」「りんごの声を聴け」みたいな、一見精神論のような名人たちの言葉ってどの業界でも多少は存在すると思います。

でもこれって、よく聞いて考えてみるとだいたい科学的にもそうだよなあと納得できる部分はあるような気がしています。

名人たちはきっと、何千本何万本と樹を切ってきた経験、つまり膨大な試行回数から法則を導き出したんですよね。

 

りんごの剪定において、よく「刺激を与えて芽を動かす」という表現がされます。枝のある箇所を切ってやって、花芽がつきやすくする操作です。

この「刺激」って何なの?というところに、環境ホルモンだとかの名前をつけてくれるのが科学じゃないかと思っています。

名人たちは言葉にしなくともわかっている道理を、名人にならなくてもある程度形がわかるようにするための翻訳機みたいな感覚です。

 

科学とかサイエンスとか言うと仰々しくて現場に即さないもの、みたいに敬遠されることもありますが、そもそも科学だってたいてい経験則から作られるものなんですよね。

科学と経験則は対立するものではなくむしろ近くて、それぞれを補完しあうものなのかもしれないと思いました。

だから私は科学のことを頼りにしちゃうし科学という宗教を信仰したいんだな…

 

以前も同じようなことを書いた気がしますが、剪定しながら高校生物の復習をしてると本当に科学すげえなと思ったので書かずにはいられませんでした。同じくらい植物の体の仕組みも、それを見抜ける名人たちもすごい。

それではおやすみなさい!

人類みな個人事業主

こんにちは!むりしない農家(仮)です。

 

この土日で実家に弾丸帰省してきました。

主な目的は、りんご剪定の下見と細かい家財道具の運搬です。

せっかくの休みなので友だちとご飯を食べたり、道中で酒屋に寄り道をしたり、休日らしいことも久しぶりにできました。

 

ありがたいことに畑に好きなだけ行ける環境なので、時間で考えるとおそらく日々の8割くらいは仕事関連に使っています。残りでかろうじて死なない程度に家事をしてます。

言ってみれば前職の「忙しいな〜」と感じてた頃と同じくらいです。

ただ不思議なことに、それほど体は疲れていないしメンタルもいたって健康な気がしています。

 

まだ入社したてのアドレナリンで持ってる部分も多少あると思います。

でもやっぱり、以前との差で一番大きいと思うのが「やるべきことと使えるものがはっきりしている」ということです。

 

弘前に来る前に、自分の中で仕事や家族、私生活などの優先順位を決めました。この2年間に関しては間違いなく仕事を第1位に置くことにしています。

やるべきことの優先順位が決まっていると、何がいいかって選ぶエネルギーを節約できるんですよね。迷ったり、諦めた方のことを考えたりするのってわりとエネルギーを使います。でも何も生み出してはくれません。

もう生み出さなくてもいいくらい余裕のある人生なら、そういう余白に思いを馳せるのも趣があると思います。だけど私はまだそのステージには行きたくないし行けないんです。

 

限られた時間をやるべきことに上手くつぎこまなきゃいけない。それは時間だけじゃなくて、自分の体力とか資金力に関しても言えることです。

前職で自分の体力の限界を知り、ニート期間で自分の機嫌がとれるギリギリのラインを知りました。「自分に使えるもの」を数年前よりだいぶ明確に意識できるようになったと思います。

だから「これもこれもやりたいけど体力的には持たないだろうからどちらかを捨てよう」とか、「今日このくらい頑張ったなら夜はちゃんと休まないとヤバい」とかを俯瞰して考えられるようになりました。当社比ですけど。

 

これって自分のエネルギーを商品とした個人事業みたいな感覚だなと思います。すべての人は、自分の持てる限られた資源をどこに投入して回収するか、無意識的にでも考えているんじゃないでしょうか。人類みな個人事業主です。

 

そんなわけで限られた資源を別のことに振り分けていたらブログからまた足が遠のいていました。書けば楽しいんですけどね。もっと筆が早くなりたい。これから昼寝します!おやすみなさい!

言ってなかったっけ

こんばんは!むりしない農家です。

 

言ってると思ってても言ってないことってあるなあと思います。

 

年末に友達に会ったとき、「あんまり仕事の愚痴言わないよね」と言われました。

前職にいたときも一番高頻度で会っていた人で、私としては会うたびに仕事のここがやだな~あれやめてほしいな~みたいな愚痴をけっこう言っていたつもりでした。なんならいつも職場の話しかできなくてすまない、くらいに思っていたほどです。

でも彼女からすれば、なんとなく仕事嫌そうだけど具体的な愚痴は聞いたことがないという印象だったみたいです。

 

これは今回たまたまネガティブなことを言ってなかったパターンだったので幸いでした。でも例えば、いつも彼女に感謝や尊敬のようなポジティブな気持ちをもっているのに伝わっていないというのも、可能性として考えられなくはありません。自分の思っていることが伝わっていないという点では何ら違いがないからです。

だから、思っているだけ考えているだけのことにはほとんど意味がないんだなと思います。

私は記憶力がだいぶ弱い方なので、自分の考えていることもすぐに忘れます。何か思いついて、メモアプリを立ち上げている時間で忘れるなんてこともしょっちゅうです。そのとき考えていたことは、言語を使って固定してやらなければ十中八九忘れるんです。

自分でさえ忘れるんだから、そもそも考えていることが見えも聞こえもしない他人ならなおさら頭の中をわかるわけがありません。わかってほしいなら、相手のわかる言葉なり態度なりで示さないと伝わるはずがないんです。

 

数日前に、たまたま人から褒められることがありました。

自分で思ったことや言ったことはすぐ忘れるのに、人から言われたことは強烈に記憶に残っています。ああ褒められたなあって数日後までホクホクしていられます。

ということは、自分も誰かを褒めれば誰かを数日間ホクホクさせられるかもしれないってことですよね。まあ誰が言うかで変わる部分も大いにありますがそこはいったん置いておきます。

 

自分が言ったことを一番覚えているのは、案外自分ではない他人なんだと思います。どうせ覚えていられないなら、他人にはいい言葉を覚えていてほしいと思うじゃないですか。

だから何かを口にするときは、なるべく覚えていてほしい言葉を言うようにしたいと思います。これなら覚えててもらって大丈夫だと自信をもてるような言葉を選びたいです。

不特定多数に向けて言葉を選んでいるこのブログも、その訓練の一環に利用している節はあります。なるべく間をあけずに更新したい。空けばあくほどどうやってたっけ…?の時間が長くなる気がします。

むりしない範囲で頻繁に書こうと思ってるのでまた読みに来てください。それではおやすみなさい!

常識がないです

こんばんは!むりしない農家です。

 

正式に入社して2週間が経ち、ようやく地に足がついてきた感じがします。

青森の暮らしにも雪道にもだんだん慣れてきました。引っ越してからは1か月以上になるので当然っちゃ当然なんですけど。

 

私はわりと適応能力がある方だと思っています。

適応能力というのは、自分の中の常識を書き換える力みたいなものじゃないでしょうか。

住む場所や職場環境など周囲に変化があると、多かれ少なかれ今まで自分がインストールしていた常識とのギャップを感じることになります。「晴れた日の明るいうちは働いて、雨の日は休み」みたいな働き方が常識だった人が、「週5日、1日8時間働く。天気は関係ない」という環境に放り出されたら今までとは違うなとなるはずです。

 

このギャップが、私の言う「無理」の定義に近いのかもしれません。これまでやってきた自分のやり方や考え方を維持しようとして、現実と摩擦が起こっている状態です。この場合、無理をしない方法には2通りあります。

自分の従来の常識に現実を合わせるか、現実に自分の常識を合わせるかです。

ただ基本的に外部環境は自分じゃ変えられないとすると、残るのは自分の常識を書き換えるという方法だけになります。

 

つまり、無理だと思う行為をしないのではなく、無理だと思う原因を解決して行為できるようにするということです。

「その行為をなぜ無理だと思うのか」を徹底的に分解して、クリティカル無理ポイントを導き出し、そこを解決すれば行為を無理だとは思わなくなるはずです。

むりしない農家という自称には、むりだなあ諦めよう、という後ろ向きな意味よりも、本当にむりなのか?むりしなくてもできる方法はあるんじゃないか?と前向きに検討していく意味合いの方が強く込められているかもしれないと最近思うようになりました。

 

冒頭に戻ると、私は自分の持っている常識をだいぶ軽視しています。自分がそんなにまともな人間ではないと自覚しているからです。なんなら社会人の常識なんて皆無です。

でも自分のことがかわいくないわけではないので、なるべく自分が生きやすい環境を用意してやりたいとも思っています。常識を書き換えるくらいで快適に過ごせるなら絶対そっちの方がいいじゃん、くらいのノリです。

だから住む場所が変わっても人間関係が変化しても、自分の過ごしやすい形に自分をぐにゃぐにゃ変えていくことにはあまり抵抗がありません。それを聞こえのいい言葉にすると適応能力があるってことなのかなあと考えてました。

 

すごい自己PR文みたいなことを書いてしまった。ブログなので自分語りも許してください。それではおやすみなさい!

パワー!

こんばんは!むりしない農家(仮)です。

 

久しく留守にしておりました。

1/16に正式にRED APPLEの社員になり、毎日バタバタと楽しく仕事していたら1週間以上更新ができずにいました。

残業のないホワイトな職場なのと、仕事内容自体はバイトのときからほぼ変わりないのでわりとスムーズにぬるっと入社できた感じです。

 

今やっている主な仕事は2種類あります。

1つは出荷と呼ばれる、りんごを選果したり箱詰めしたりする作業です。

もう1つは、畑に出てりんごの枝を切る剪定という作業です。

どちらもりんご屋さんには不可欠な仕事ですが、使う脳みその部分は全く違います。

 

出荷の日は、規格に合うりんごを選ぶことと効率のいい動線を配置することにCPUをフルベッドしています。とにかくミスなく速く、を追って何回も繰り返すと、ある程度の正解が見えてきます。

剪定の日は、先輩方の剪定のしかたを見てひたすら「なんであれを切ってこれは残してるんだろう」というのを考えています。もしこれを切ったら、というシミュレーションを何回も繰り返しています。これは繰り返すほど考えることが多くなっていく気がしてます。

 

天気や注文の状況でどちらの作業になるのかが決まりますが、それとは別で「どっちの方がやりたい?」と聞かれることもあります。

もっと言うと「うちの会社で2年で何がやりたいの?」とも聞かれます。

でも今の段階ではどうしてもこれがやりたいとか、ここに重点を置きたいというのが考えてもあまり出てきませんでした。

やりたくないわけではなくて、どれも平等にやってみたいという感覚が1番近いと思います。できることはなんでもやりたいんです。

おそらく、「りんごを作って売って食べていく」というのがどういう行為なのか感じたくてここへ来たんじゃないかなと思っています。すごくふわっとしてますけど。

 

ただ、なんでもやりたいという願望を叶えるためには底なしの体力が必要なんですよね。

剪定のときに、樹勢(樹の持つパワーの強弱みたいなものです)は基本的にちょっと強めくらいがいい、という話を聞きました。樹勢が強ければいっぱい枝が出てくるので、そこから必要な枝を選んで残せばいいんだそうです。

健康な身体と十分な体力があれば、とりあえずやってみてからどれが必要か考えよう!というパワープレイができるのと似てるなと思いました。

体力つけよう。ちゃんとご飯食べて寝よう。

引き続き自分がどのくらい無理してるかチェックは怠らずにやっていきます。

それではおやすみなさい!

ふっかつのじゅもん

こんばんは!むりしない農家(仮)です。


今日は福岡に来てます。
最近推しのライブ遠征のために東京、大阪、福岡と日本縦断の旅をしています。今回がその最終回です。
これが終わったら来週から、RED APPLEでの研修がいよいよ本格的に始まります。1/16から社員になる予定です。


好きなだけ遊んで、観たいものを観て食べたいものを食べると「ああMP回復してんなあ」と感じます。


毎日働いたり生活したりするための源泉って大きく2種類に分かれると思っていて、それがRPGで言うHPとMPみたいなものです。
単純に生命を維持して身体を動かしていくための、食事とか睡眠で回復するものがHPです。これが無くなったら生き物はシンプルに死にますよね。
対してMPは、無くなっても即座に死ぬことはありません。一応、命は繋げます。でもMP0では戦い方の種類がかなり制限され、いずれジリ貧になって死ぬ可能性もあります。これはいわゆる、やる気とか活力とかいう類のものだと思います。


MPは、「食べるためだけの食べ物」「生きるためだけの生活」ではなかなか回復できません。RPGなら宿屋で寝ればHPもMPも一発回復するんですけど。
このMP回復のために多くの人が利用するのがエンターテインメントなのかなと思っています。ちょっと奮発して美味しいものを食べるというのも、食事ではあるものの娯楽性を大きく含んでいます。


じゃあやる気が全くなくなったらエンタメをとにかくぶち込めばいいかというと、そうでもないよな〜とここ数年で感じるようになりました。
本当にMPが枯渇したときって、何も受け付けなくなるんですよね。個人差はあると思いますが、私はクソ忙しくてメンタルが底まで落ちた場合、なんの本も漫画も読みたくないし推しの映像を観るのもなんか違うな…と思ってしまいます。


これはおそらく、エンタメというMP回復魔法にも多少のMPを消費する必要があるからだろうという仮説を立ててみました。
断食の後に大盛りラーメンが食べられない、もしくはバッテリーが完全にあがるとエンジンをかけられない、みたいな現象に近いと思います。
エンターテインメントの「良さ」を消化吸収して、体内で新たなMPを生成する機構があるとします。その機構を動かすためにも、まず始めにMPを消費する必要があるんです。
だから完全に空っぽになると回復が難しいんじゃないかと思います。


だから空っぽになる前に、消化できる余裕があるうちに早め早めを心がけて回復するようにしたいです。この半月でフルに回復できたので大事に維持していきます。ライブ楽しみ〜!
それではおやすみなさい!

剪定ムズい

こんにちは!むりしない農家(仮)です。

 

前回出し渋った剪定の話を今日はします。

剪定とは、りんご栽培において最も難しく、かつ最も重要とされている作業です。

何が難しいのか、それを言語化することすら難しいんですが、強いて言えば「正解はないのに間違いはある」ところかなと思います。

 

剪定の最大の目的は、いいりんごをたくさん収穫できるようにすることです。その目的に向かって、多くの果樹農家はうんうん言いながら毎年枝を切ってるんですね。

まず最初の難関は、「いいりんご」というのが作る人もしくは出荷先によってかなり違うという点です。

色づきを重視するのか、味が最優先なのか、サイズの揃いが命なのか。目指す理想のりんごが違うなら、とるべき方法も変わってきます。

 

そして、「いいりんご」と「たくさん収穫」は基本的にトレードオフの関係にあります。

樹が持っている栄養やパワーはもちろん、作業にかけられる手間や時間などはすべて限りがあるものです。

たくさん収穫したいからといって、枝をぎゅうぎゅうにつけて咲いた花には全部実をならせる、なんてことをすればいいりんごを全く収穫できないなんて本末転倒も起こりえます。

 

さらに厳しいのが、果樹には1年で1回転しか経験できないという大きな枷があります。

全くの初心者が1本の枝を切って、それが樹にどんな影響を及ぼしたか知ることができるのは1年後になるということです。

そのため、とにかく本数こなして経験から覚えろ!!みたいなスタイルとは本当は相性が悪いと思うんです。切っちゃったものは戻せなくて、しかもずっと残り続けるというおまけもついてきますし。

 

また、剪定の難しさには階層がある気がしています。名人と呼ばれる剪定のプロが「剪定は難しい」と言ってるのは、方針を決める部分つまり意思決定が難しいということだと思います。

RPGの魔法使いが「この戦闘シーンではどの呪文を使おうかな」と悩んだり、数学者が「この定理の証明にはどの証明方法が適切かな」と迷ったりするみたいなレベルです。

でも剪定初心者がぶつかっている「剪定難しい」は、

「呪文ってどうやって発音するの…?」

「方程式ってどうやったら解けるんだっけ…?」

というそもそも道具の使い方レベルのところです。前述の通り葉物野菜などに比べて経験値を積みにくいので、ここに数年留まらなきゃいけない人がほとんどじゃないかと思います。

 

スポーツなんかでもよく言われる、名選手が名コーチになるとは限らないみたいな理論で、剪定名人が教え方もうまいとは限りません。というか、名人に教え方まで上手くあれというのはかえって全体としては損をする可能性だってあります。

栽培のことだけをずっと考えてきて、何十年も剪定をし続けている人にしか見えないものは確実にあるはずです。それを奪ってまで初心者に教えてくれというのはそれこそ本末転倒です。

だからもう、名コーチを育てるための教育というものを新たに始めたらいいと思うんですよ。

日本の農業界には名選手は十分すぎるほどいるはずなので、そういう人にどうやったらなれるのかを分析して後世に伝える存在が現れたら無敵だろと思ってます。

 

どんどん話が脱線した気がします。総じて剪定ムズいねってだけなんですけど。早く名人と同じ眼鏡で樹を見ることができるようになりたい。それでは!